David Oistrakh - Artist of the People? -

Artist of the People? (Warner:WPBS-90093)
ダヴィッド・オイストラフ(David Oistrakh 1908-1974),録音や映像に残っているヴァイオリニストの中で,この人以上のヴァイオリニストを私は思いつかない.パガニーニもクライスラーも過去の人だ.伝説と較べることは出来ない.しかし,ロシアの太陽,オイストラフは実像として目の前にいた.
初めてオイストラフの映像を見たとき,思わず納得してしまった.レコードで聴いていた演奏の安定感,微動だにしないテンポ,いかなる難曲も全く苦労しているようには聞こえなかった.まさに映像における彼はまるで石像のような重さで舞台に立っていた.
しかし,彼の生きた時代は,共産党政権が絶対的な支配を行っていた,ソ連邦の暗黒の時代.芸術家は体制のプロパガンダの為の道具でしかなかった.メニューインは共産党員になった彼に,いささか屈折した思いを抱いていたようだ.音楽と人柄への傾倒と,共産主義への嫌悪が複雑な感情を生んでいたようだ.
生きるためにしたこと.彼はそのことに対して,生涯何一つ語らなかった.批判することも,自分の弁護をすることも.何一つ語ることはなかった.そしてその苦悩を音楽にぶつけることすら彼はしなかった.その広く温かい心は,シベリウスの協奏曲などに明確に顕されている.
チャイコフスキー,シベリウス,ブラームス,ショスタコーヴィッチ,如何なる時代の曲も,完全な技巧を見事な安定感でオイストラフは演奏する.メニューインやハイフェッツなど他にも技巧の優れたヴィルトゥオーゾは居た.しかし,オイストラフでなければ成らないのだ.これはホロヴィッツとリヒテルの違いに似ている.
この映像作品は,リヒテルのenigmaや,グールドの一連の作品を作った,モンサンションである.残念ながら,死後に作った作品なので,彼の人柄を深く掘り下げるには至っていない.しかし,彼の温かさを感じる事の出来る映像である.