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2006年02月26日

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ヴィルトゥオーゾ達の鎮魂歌(レイクイエム)

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リヒテル最後の日本公演プログラム(1994年)

1974年 David Oistrakh(Vn)
1981年 Karl Bohm(Cond)
1982年 Leonid Kogan(Vn)
1988年 Evgeny Mravinsky(Cond)
1989年 Herbert von Karajan(Cond)
1990年 Leonard Bernstein(Cond)
1997年 Sviatoslav Richter(P)
2001年 朝比奈隆(Cond)
2004年 Carlos Kleiber(Cond)

これは私が敬愛してやまない,クラシック音楽の巨匠[virtuoso]達の過去帳である.ここに挙げたのは,私がレコードを買い始めてから,死んでしまった人たちである.もちろん他にも多くの音楽家が亡くなったが,以後新譜が出ない,あるいは実際に公演を聴くことが出来ないということが,非常に惜しまれて成らない人たちだ.

幸いなことに,Carlos Kleiberの最後の日本公演で,ウィーン国立歌劇場と同管弦楽団による「ばらの騎士」を観られたこと,Sviatoslav Richterの最後の日本公演は2回チケットがとれた事,Leonard Bernsteinの最後の日本公演で,ベートーヴェンの7番を聴けたことが救いである.朝比奈については三度にわたるベートーヴェン・チクルスで多くの公演を聴いているし,マーラーも聴いているので,諦めがつくわけではないが,不幸中の幸いといえるかもしれない.

CDをMP3に変換して整理するようになり,改めてこれらの巨匠達の不在を思い知ることになった.未だ健在の巨匠としては,チェロのRostropovichくらいか.

それにしても,朝比奈,リヒテル,クライバーの死は,私のクラシック音楽への情熱を半減させてくれた.もっともクライバーは殆どツアーを行わない人なので,日本公演を一度,しかも決定版とも言われる「ばらの騎士」が観られたことは,何にもまして貴重な体験だった.

リヒテルにしろ,クライバーにしろ,神経質でキャンセル常習犯の巨匠に日本好きが多かったことは幸いだ.その理由の一つは,日本の聴衆のマナーの良さにあると言われている.公演中身じろぎせず,演奏家以上の緊張をもって静聴し,どんなマイナーな曲目でも見事なまでに曲の終了を判別し,拍手の為所を間違えない.こんな聴衆は世界のどこを探してもいないらしい.

もっとも最近御他聞に漏れず,マナーは低下している.演奏中にパラパラと音を立てながらプログラムをめくり,開演前にもらったチラシのビニールをパリパリ言わせ,一緒に来た人と話をする.コンサート会場は空気が乾燥しているが,ひどいのはなめていた飴をカリカリ噛む者まで居る(差別をするわけではないが,殆どがオバサンです).思うに以前はクラシックの公演は,一握りの熱狂的ファンのものだったが,最近は気軽にコンサートを訪れる人が増えたのだろう.

私としては,何を犠牲にしても行きたい巨匠達が皆鬼籍に入ってしまい,コンサートへの意欲がなくなっているのが救いである.

2006年02月25日

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イルカとの出会い

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小笠原のイルカ(拡大)

1995年8月4日小笠原諸島嫁島付近の浅根で潜った時のこと.この日の一本目で,エントリーは9時54分.ポイント名はぶんぶん浅根.底の見えない深場からまるで何かのモニュメントの様に岩礁が屹立している.流れの速さが「ぶんぶん」の謂れだろうか.浅根といっても根の上が-20m以下で,そう長くは潜れない.潮が当たると,大物の回遊魚が期待できるので,根の上の珊瑚礁を散策しながら,回遊してくるメジロザメやハタタテの群れなどを見ていた.何人かはエアが危なくなったので,そろそろ減圧しながらあがろうかとガイドがサインを出していた.

今にして思えば,予兆はあったのだ.流れに乗ってきた大型回遊魚や,それらを狙うサメの姿が,その頃急に見えなくなっていたのだ.

-10mほどに浮上したとき,後方から「声が聞こえた」.と感じた瞬間,もの凄いスピードで5頭くらいのイルカが我々の前に現れ,エアの林をスラロームの様に縫って泳いでいる.一気に心拍が上昇し,思わず「行っていいか?」と,ガイドにサインを出してしまった.

このときはNIKONOS-RSに28mmをつけて持っていた.ちょうどイルカの群れに対し,私が先頭に近い位置に居たのは幸運だった.写真を撮ろうと泳ぎだした瞬間,「ザワッ」と音がして振り返った瞬間,群れの本隊がやってきた.総勢20頭余りの群れは我々を取り囲むと,それぞれのダイバーにイルカがつくような形で我々を観察し始めた.

写真のイルカは私の真正面に来てクリックしたり,右眼,左眼と交互に私を見ていた.かなり大きなイルカで,年もとっている様だったので,リーダー格のイルカではなかったと思う.真正面で相対した時間は実際にはほんの数秒だったかもしれないが,全体がスローモーションの映像のように,このときのことを鮮明に覚えている.

よくクリックされて痺れたとか言う話を聞くが,超音波によるサーチがそれほど人体に影響が有る物か,私には判らない.いずれにしてもこのときの感動と興奮は格別で,その後何度もドルフィン・スイムをしたが,同じような興奮と感動を得ることはなかった.もちろん海の中でイルカと出会うことは,その度に新たな感動であるのだが.「予期せぬ出会い」の感動とは違うようだ.

私はイルカ信者ではないので,特別な動物だとか,神秘的な生き物だとか,あるいは特別な力があるとは思っていない.しかし,あれだけ大きな生物と,同じ海の中で,なにがしかの交流を持つことは,得難い体験であり,私の心の中に何かが残ったのは事実だ.それは暖かい光のようであり,また海への情熱のような物かもしれない.

一体どれだけの人が一生の内にこのような経験が出来るのだろう.そう考えると,心の底から震えるような,すばらしい体験を与えてくれた小笠原の群青の海と,スキューバ・ダイビングを冒険からスポーツに変えてくれたクストーに感謝したい.

そして今は,旧知の友として,彼等の生命が人間の活動によって脅かされない事を望んでいる.

2006年02月19日

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マタイ受難曲とは何か(2)

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良く聴くCD2組

クラシック音楽は再現芸術である.曲が作られたのは古くは250年ほど前であり,基本的にスコアは1つである.それを様々な演奏家が演奏し,録音している.曲によっては同じ指揮者,同じオーケストラで3度録音されているような例もある.それは,不変のスコアを再現する際の,演奏者の技巧的な違い,精神性,音の強弱や響きといった表現の違いによって,これが同じ曲かと思わせるほどの違いを見せるからである.

従って,音楽に巧劣は有っても,善し悪しはなく,「良い演奏」というのは個人的な感想である.良くこの曲の良いCDはなどという話があるが,本人がどのように音楽を聴くかによって,好みは分かれるのが普通だ.

従って,私のバッハ演奏の聴き方,あるいは判断基準を説明しなくては,勧める意味がない.

特にマタイに対して思い入れがあるので,一般的な判断とは言いかねる部分もあるかもしれない.まずバッハ演奏に求めるものは「清潔さ」だ.バッハの出自は教会の御用音楽家である.ある意味,宗教家とも言える.特にミサ曲や受難曲は,チベット仏教のマニ車のように,その曲を聴けば長くて退屈なミサや,説教を聴いたのと同じ功徳があるといった性格を持っていた.宗教曲らしい清潔感がまず必要だ.

次に緊張感である.肩の力を抜いた,美しい音楽を求めるなら,リヒャルトシュトラウスやその他の作曲家を聴くべきで,バッハのしかも宗教曲にそれを求めるのはいかがなものかと考える.張り詰めた緊張感が指揮のみ成らず,歌手やオーケストラの隅々まで行き渡っている演奏が良い.

最後に「祈り」である.これは宗教的解釈と置き換えても良い.つまりキリストの聖書解釈,さらに作曲者この場合バッハの解釈と大きく外れた演奏をしたのでは,本当の意味の再現芸術とは言えない.

もちろん技術は最低限の問題で,商業的に名人上手を集めたからと言って,良い演奏になるとは言えない.特に歌手は良いイタリア・オペラの歌手だからといって,バッハを歌えるという物ではない.

このような選別を行っていった結果が,カール・リヒターの58年の録音だった.ヘフリガーのエヴァンゲリスト(福音書記者:預言者)やディースカウのイエスはとてもすばらしい.また全体に張り詰めた緊張感があり,表現は抑制されている.全体にインテンポな演奏で,形式的にも宗教曲としての品格をよく表している.

各有名なアリアの出来も気になるが,私は特に終結合唱が気になる.バッハはここで,きらびやかにキリストの復活を表しているとは思えない.静かにイエスに訪れた安らぎ(死によって得られた)に安堵し,死によって永遠が訪れたことを感謝している(これがバッハのキリスト教観ではなかろうか?).従って,力強い演奏ではあるが,静かに,淡々と光を歌っている.

ものによっては叫ぶようであったり,力の限りにキリストの復活を歌い上げるかのようなものもある,が私の考えには合わない.

次に日本で録音された金字塔として,鈴木雅明指揮,バッハ・コレギウム・ジャパンによる演奏を挙げよう.日本人の手によってこのような演奏が行われたのは喜ばしい限りだ.(写真右)

その他分類するとすれば,古楽器による演奏や,大オーケストラ物など分類が可能だ.後者では意外と言っては失礼になるかもしれないが,ショルティの作品がなかなかすばらしい.全曲盤は現在リリースされていないようだ.ロンドン・レーベルからハイライト盤が出ている.

物によって,アリアの声調が違う場合がある.アルトのアリアをソプラノが歌っていたり,伴奏の楽器が違う場合もある.実際のコンサートでも最後に聴いた木の十字架合唱団の公演では,通常はバスが歌う放蕩息子のアリアをテノールが歌っていた.古い演奏には,アリアの多くを削除しているものもある.フルトヴェングラーの録音では,同じ音源であるにも関わらず,発売しているレーベルによってそれぞれに有るもの無いものがあり不思議だ.

他にも映画音楽のように美しい演奏もあれば,オペラのように派手な演奏もある.それぞれの好みに応じた,自分なりのベスト盤を探すのも一興である.

2006年02月18日

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マタイ受難曲とは何か(1)

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Karl RichterのマタイDVD(UNITEL)

Karl Richterによる,マタイ受難曲のDVDがようやく発売になったので,この機にマタイ受難曲とはなにか,について改めて考えてみたい.バッハによるこの曲は1727年に初演され,以後バッハ自身の手で何度か改訂され,その都度演奏されたたと言われている.しかし以後メンデルスゾーンによって再発見されるまで,永く人々に忘れられていた.

マタイ受難曲はもちろん聖書のマタイ伝を元に,キリストの最後の一週間を描いている.この曲を理解するためには,キリストの「受難」とは何か,といったキリスト教の知識や,バッハの楽曲の理解,当時の世界観や世相,そして純粋な音楽的知識など多くの知識を必要とする上,3時間を超える大作で,最後までこの緊張感のある作品を聞き続ける体力も必要である.

私は実際にコンサートで聴くまで,この曲の意味,そして何よりもすばらしさを理解する事はできなかった.確か最初に聴いたのは聖トーマスだったと思うが,その後ゲバントハウスや,ミュンヘン,木の十字架など多くの演奏を聴いてきた.そして多くの文献を読み,講演を聞き,さらにはスコアまで見るにいたって,漸く私なりの理解ができ,この音楽史に燦然と輝く名曲を楽しめるようになった.

実際に,キリスト教的な「受難」の理解は最低限必要ではないだろうか?(単純な「キリストの死」ではない,ということ.)

まあ,テキストが字幕で表示されていると,純粋にキリストの受難を描いた音楽劇として楽しめないことはない.実際私の最初の「理解」もそこから始まっている.CDでは途中で疲れてしまうし,ブックレットのテキストを目で追いながら聞くと集中できない.字幕付きのコンサートで初めて集中して聞くことができ,素直に感動する事ができた.

私は今となっては一部でも聞けば曲のどの辺か判るし,大まかなテキストの内容も思い出せる.しかしそれでも,できれば日本語字幕は有った方がよい.(早く日本盤が出ないものか)

さて,西洋音楽の歴史はマタイに始まり,そしてそこですでに完成していると言われている.実際後世のクラシック音楽の技法は殆ど登場しているといって過言ではないだろう.4部に分かれた独唱,オーケストラ編成と一部楽器の独奏,登場人物ごとのテーマや楽器,リズムによる性格付けなど,あげればきりがない.

例えば現代音楽の代名詞とも思える不協和音も,バッハは既にここで使っている.しかもピラトのところで,キリストを罪に陥れようと嘘の証言を集める異教の祭司たちの相談を象徴する部分で使われている.つまり不協和音の持つ心理的な効果まで計算されているのだ.

更にバッハは多くの仕掛けを用意している.最後の晩餐の場面で,「この器からワインを飲め」という部分が11音からなり,ユダを除いた11人を示し,ユダの裏切りを示唆している.他にも鶏が鳴くまでに三度キリストを知らないというと予言されたペテロが,問い詰められて本当に「知らない」というときの音が鶏の鳴く声と同じフレーズになっていたり.

数字のマジックについて言えば,あるフレーズの音の数が,そのフレーズに関連する詩篇の番号に対応していたり,子供たちの年齢に関連づけてあったりと,本当にきりがない.

マタイ受難曲の楽しみは,このように聴くだけにとどまらず,スコアを研究したり,関連する書籍を読むことで,何倍にもなるのである.

2006年02月16日

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香箱組んで昼寝して(8) -自由気ままな猫ライフ?-

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工場のPhotogenic Kitty(拡大)
野良猫という言葉は嫌いだ.路上生活をする猫たちは幸せななのだろうか?

路上生活をしている猫に餌を与える人がいる.うちのマンションにも,付近に住む猫に餌をあげている人がいて,近隣の住民から苦情を受けている.私は路上生活の猫に餌を与えるのは,自己満足のための卑劣かつ無責任な行為だと思う.

もちろん私は猫が好きだ.通勤途中にいる猫はそれぞれ名前をつけて可愛がっている.私が近づくとお腹を見せて横になる猫もいる.でも餌を与えたことはない.なぜなら彼(女)等は自由な猫だからだ.自由である,ということはこの場合野生であるということに近い.彼等は真の野生ではないが,生きる自由と死する自由を等分に持ち,己の生命を本能の赴くままに全うしている.

その彼等に餌を与えることは,死する自由を享受する者への冒涜である.

最近のティーンエイジャーには,「野生」という事が理解できない人が多く,イルカについて「飼われた方が幸せな場合もある」などと信じている.「野生」であるということ.生きる自由と死ぬ自由を完全に持つことの崇高さが理解できないのだ.イルカは殆ど水族館で世代を重ねることはまれであり,野生のものを捕まえて連れてくるのだ.「死ぬ自由」の判らない人間に,「野生」である事の価値は判らないだろう.

話が逸れた.都会で暮らす猫が「野生」であるとは思わないが,自己満足のために餌を与えることで,人への依頼心を育て,そのくせ自分の都合でしか餌を与えない.病院に連れて行って予防接種を受けさせるわけでもなく.清潔にしてあげるわけでもない.トイレの始末をするわけでもなく,病気になったときの介護をするわけでもない.

ただひととき,神にでも成ったかのような気分に浸るために,「餌を与える」.自分が高所に立ったような行為であり.実に不愉快だ.以前にも書いたが猫を飼うには覚悟がいる.その猫の人生(猫生)すべてに責任を持つことが必要なのだ.辛いこともあるし,苦労もある.そういう負の部分をすべて受け入れず.猫が餌を喜ぶその瞬間を味わいたいがための,卑劣にして自己満足に他ならない行為を私は憎む.

写真の猫は.工場のちび猫で,この冬に生まれたばかりだ.もちろん仲良くなりたいし.餌をあげてみたい.健康状態も気になる.でも彼(彼女?)にはまだ母が居て,夕方には餌を与えにくるのだ.おしりを拭き,餌を与え,体をなめてあげるのは,母の特権なのだ.母に代わる覚悟がなければ,餌はあげられない.

かつて一度だけある猫に餌をあげたことがある.全身に皮膚炎と肉腫があり,眼も爛れていた猫だ.おそらくは死の病を得て,もう永くは生きられないその猫に,一度だけ餌をあげた...一度くらいお腹いっぱいおいしい物を食べた思い出があってもいいと思ったからだ,次の日には見えなくなったが,そのことは今も忘れていない.

2006年02月15日

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ああっもうっ!だから自転車は左側だってば!

もういい加減頭に来て,なんだかストレス溜まりまくりですな.お願いだから,夜の住宅街の薄暗い道で右側を無灯火で走らないでほしい.おまけに人を避ける気はないが,自分を避けない他人はいけないらしい.人を恐ろしい目つきで睨んでいた.こういうオバハンはどうにもなりません.

もう何度も書いているし,ネット検索で「自転車」「車両」で当たると,私と同じような事を書いているWEBがそこら中にあります.同じように憤り,警察や自治体の怠慢を指摘しています.中には何故自治体や警察が自転車が車両である事を徹底しないのか,利権や黒い関係を指摘している方もいるようです.

真偽のほどは定かではありませんが,とにかく皆さん車両としてもマナーを守りましょう.

お願いだから...

2006年02月13日

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彼等はアスリート?それともストリートパフォーマー?

冬季オリンピック トリノ大会が開幕したが,男子HPを見ていて不愉快になってしまった.

スノーボード・ハーフパイプが正式に冬季オリンピックに採用されて2度目.まだ競技として成熟していない面があるのはやむを得ない.しかし,日本のスノーボード選手の競技態度や演技内容を見て,他の競技の選手と比べ,ある種の見苦しさを感じたのは私だけだろうか?同じ日に行われた男子滑降などを見ていると,100分の1秒を争い,まさに命がけの勝負をしている.ここに至る道においても命を削るような練習を経ているのだ.

同じ冬季オリンピックにおいて,今季は不調とはいえ,清水選手などの競技に対するリスペクト,トレーニングに対する真摯な姿勢をみて,あまりの違いにがっかりしてしまう.競技そのものの出自がそうだと言ってしまえばそうだが,オリンピックで有る以上,ストリートパフォーマンスではなく,「競技」なのだ.

ヘッドフォンをして,奇矯な声を上げて,派手なパフォーマンスをし,演技内容はどう見てもいまいちなのに,派手なガッツポーズをし,点数が上がらない理由がわからない様子は笑止だ.あまり興味の無い競技なので詳しくないが,素人目に見てもスピードと着地が明らかに違っている.

上位に入る選手の着地は非常に滑らかで,エアの動作も非常に滑らか,かつ全体的なスピードがある.さらにアスリートらしい真摯な姿勢で競技に臨んでいる.理解できないのは,競技としてトレーニングしてきたのに,どの程度の点がでる演技だったのか本人が判らないという事だ.同じ様な採点方式の競技でも,フィギュア・スケートなどで,このような有様は見たことがない.いやそれ以前に素人目に見ても,ドスンと着地し,滞空時間が長いと言えばそうだが,全体的にスピードが無く,かつ動作に滑らかさが無い事は明らかだった.

自らの失敗を派手に嘆くのも結構だが,アスリートらしい態度と,競技内容を見せてほしいものだ.オリンピックはストリート・パフォーマーのパフォーマンスを見る場ではない.望み通り次が有るのなら,アスリートとして戻ってきてもらいたいものだ.

2006年02月11日

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iPod用ビデオの作成 -その2-

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QuickTimeで再生中

iPod 5Gのビデオ機能はかなりのインパクトを各方面に与えたようだ.ビデオ・オーサリング・ソフトを販売している各社も,ここに来てiPod/iTune対応のプロファイルや,プラグインを提供するようになってきた.私が普段使っているUleadのVideoStudio9でも,iPod用プロファイルが提供されたので,早速試してみることにした.

VideoStudio 9 iPodパワーパックをインストールする事で,iPod用のプロファイルが追加されるらしい.実際にインストールしてみると,iPod用の4:3とWide-Screenが追加されていた.

比較したのは,前回と同じように,DVDから読み込んだデータ(MPEG-2)を使用.詳細はココをご覧ください.前回同様の手順で,iTuneでH.264に変換したファイルと比較してみよう.対象はVideoStudio9のiPod用Wide-Screenというプロファイル.

iTuneで変換したH.264
フォーマット: AAC,ステレオ,44.100kHz
  H.264,320x213,約1670万色
ムービーFPS : 29.97
データ容量 : 35.91MB
データレート : 822.95kBit/秒
再生時間 : 6分4秒
画面サイズ : 320x213 pix

VideoStudio 9 のiPod用Wide-Screenプロファイルで変換したMPEG-4

フォーマット: AAC,ステレオ,48.000kHz
  MPEG-4ビデオ,320x192,約1670万色
ムービーFPS : 30.00
データ容量 : 33.39MB
データレート : 765.22kBit/秒
再生時間 : 6分4秒
画面サイズ : 320x192 pix

ファイルサイズもFPSも殆ど同じ,画面サイズがH.264の方が若干広いだけ,ビデオ・フォーマットに関する私の知識では,差をうまく説明できません.QuickTimeで再生した映像も,特に違いが有るようには思えませんでした.

いずれにしても,VideoStudio9の以前のMobileビデオのプロファイルに比べると,ノイズが無くなり,大変見やすくなりました(当然ファイルサイズが大きいのですが).iTuneで変換するよりは,手順が単純になり,使いやすいのでは無いでしょうか.

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本日の境川サイクルロード

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本日の境川(拡大)

今朝は割と冷え込みましたが,日が高くなるにつれて,随分気温も上がってきました.祭日なので座間大和線のトラックもやや少なめで,快調にスタートしました.いつも信号まで迂回して渡らなければならない246もちょうど信号待ちで止まっていたので,ノンストップで渡れました.

瀬谷から横浜に入った住宅地の道路も新しく舗装されたところがあり,気持ちよく走れました.藤沢に入ったところで,時間がやや早いせいか,いつも道いっぱいに広がって,だらだら走っているT中学野球部も見あたらず.

まあ,あえて言えば土曜日に必ずいる,MTBに乗って,バリバリの自転車野郎の格好をし,道路の右側を爆走してくる御老人が鬱陶しいくらいで,約1時間7分で藤沢市民病院前に到着.

そのままタッチアンドゴーで折り返し,鷹匠橋の先,立石に向かう橋のところで信号待ちをしていると,なにやら殺気だったお姉ちゃんが私の待っている道の反対側にママチャリで...パステル・ピンクのどてらダウンに毛糸の帽子,ミトンのグローブ,さらに花柄ピンクのスポーツタイツ...うーん,何でしょうどうみても10代後半の女性ですが.

信号が変わって渡ろうとすると,すごい勢いで私の右側に並んできました.止まる前にギアを下げていなかったので,ちょっと出足が悪く,ぶっちぎろうと思いましたが,そのまま併走...なんか凄い形相だし,ギアも重かったし,あんまりグリップが当たりそうなほどよられたので,ギアを下げつつ足を止めて流しました.

そうしたら,前に出たとたん左折して農道に入っていきました.あのまま私が譲らなかったらどうするつもりだったのでしょうか?一緒に直進したんですかねぇ?ソレイユ・タイツねーちゃんを,道交法違反暴走漫画にちなんで,頭文字(イニシャル)B(BicycleのB)と名付けました.

とすると,右側逆走のご老人は,頭文字(イニシャル)じGってところでしょうか?

帰り道,つきみ野SATYの少し手前のダウンヒルで,道路を渡ろうとしたお母さん.右側から来る私は全く視界に入らず,車だけ見ている様子で左車線の半分まで出てきました...私の直進軌道上.私が避けることが確実だと思っているのか,車道の真ん中だろうが何だろうが,歩行者は避ける必要は無いと思っているのか?私は茶店やレストランで透明人下扱いされない方なんですが...

さて家に帰ってから考えるに,あのママチャリ,ソレイユ・タイツのねーちゃんを何度かぶっちぎったような気が...根に持たれたんですかねぇ.ひょっとしてあの橋で私が来るのを虎視眈々と待っていたのなら嫌だなぁ.

今日はあまりにインパクトのあるソレイユ・タイツねーちゃんのおかげで,社会ルールを無視したその他の魑魅魍魎は気にならなくなってしまいました.

来週もいるんですかねぇ.もっともそろそろ花粉シーズンなので,私は店じまいになりそうですが.

本日の走行タイムは2時間17分,走行距離48.3kmでした.

2006年02月09日

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自転車は車両です!

道路交通法では自転車は「準車両」です.リヤカーや屋台と同じで,車道の左側を通らなくてはなりません.歩道を通行できるのは,「自転車通行可」の標識が出ている範囲です.また夜間に無灯火で走ることも,道交法違反です.

しかし,何故道路の右側を逆走する人がこんなに多いのでしょう.歩行者感覚で乗っているのでしょうか?住宅街の歩道のない道路だけでなく,歩道のあるれっきとした車道の右側を逆送してくる感覚は全く理解できません.

さらに,人を避けようとする意志のまるっきり無い方が多いこと.特にひどいのは,子供と一緒に自転車に乗っているヤンママですね.子供の自転車の乗り方を注意するわけでなく.かつ,逆送しているのに他人様を避ける気が全くありません.親がそうなので,子供も全く同じです.こうやっておバカが増殖するんだなぁと,感心してしまいました.

それにしても歩道を走るのは,年寄りや小学校低学年の子供なら判りますが,高校生や20代30代の男性が何で歩道をわざわざ走るのでしょう?それもほんの70cmくらいの狭い歩道を思い切り走っています.車道をちゃんと走った方がよっぽど早く走れると思うのですが.

まあとにかく,道路の右側を逆走してきて,避ける気もなく,左側を走ってきた私をすごい眼でにらみつけるようなのは止めてもらいたいものです.こんなご時世ですから,こちらが注意でもしようものなら逆に変質者扱いでもされかねません.

昔,日本には「傘半分」という美しい言葉が有りました.狭い道ではお互い半分傘をずらせば,お互いに半分濡れるだけで済むという意味です.

もっとも,「お金を払って居るんだからいただきますと言わせるな」なんて,本気で学校に怒鳴り込むような人間が増えているそうですから,道路の逆走も,人を避けないのも,それが「普通」なのかもしれません.暮らしにくい国になりました.

2006年02月07日

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変貌する伊豆の海

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ハナミノカサゴ(拡大)

これは,1990年の伊豆大瀬崎,外海で撮ったNIKONOS Vによるファーストショットと言っても良い写真です.伊豆に行くのに腰が重い原因の一つがこの写真にあります.いま大瀬崎でダビングを楽しんでいる人にこの写真を見せて,外海だと言っても信じてもらえるでしょうか?

水深15mほどの柵下と言えば,判っていただけるでしょうか?嘘では有りません.ほんの15年ほど前までは,15mあたりの壁がソフトコーラルに埋め尽くされていました.

外海だけでは有りません.湾内の状況はもっとひどくなっています.かつては湾内を一本潜れば必ずイザリウオが一匹や二匹は見られた物です.湾内はサツマカサゴの異常繁殖でイザリウオが激減しましたが,今はそのサツマカサゴさえ居ません.きっかけはエルニーニョだったように思われますが,誰の所為にもできません.

長くダイビングを続けていればいる人ほど,伊豆の海への足が遠のいているのではないでしょうか?

あの日と同じ伊豆の海に潜れない限り.

2006年02月05日

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香箱組んで昼寝して(7) -何故草が好き?-

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本日のぴしゃーま(拡大)

我が家のぴしゃーまは草が主食です.

まあ,猫としてはかなり悪食なのでは? とにかく草が好きなのですが,自分ではなかなかうまく食べられません.食べようとすると顔に刺さるので,途中であきらめて私を呼びます.最初は何のことか判りませんでした.草の鉢の前に座って呼ばれるので,少しむしってあげると,ものすごい勢いで私の手を追いかけてきます.

これ一つをとっても,一人で暮らせない猫なのが判りますが.

それはともかく,草を食べすぎるせいで,ちゃんとした餌をあまり食べてくれません.まあおかげで我が家のぴーすけは肥満になることもないでしょうが.医者に行くと大抵「痩せている」と非難されるような感じで言われてしまいます.

ロシアンブルーが草好きなのか?家の猫だけなのか?まったくもって訳が判りません.草好きでこまるのはうんちの切れが悪いこと.当然猫は草を消化できないので残るのですが,時々おしりから出きらないで,大変なことに...おしりを浮かしてがに股で部屋に戻ってきて,カーペットにこすりつけたりして...

草好きだけは,なおりませんねぇ.どうした物でしょう.最近少し大人になって,自分一人で鉢から食べられるようになったのが救いです(それでも呼ばれますが).

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バッハ演奏の歴史的名演がDVD化

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Richterのバッハ三部作がDVDに

カール・リヒターといえば,20世紀のバッハ演奏において,一つのテーゼ示した演奏家として名高い.特にバッハのマタイ受難曲,ミサ曲ロ短調においては他の追随を許さない名演中の名演として名高い.切れのある,血を吐くような「祈り」を感じさせるすばらしい演奏が残されたことは,誠に人類の遺産とも言える宝である.ちなみにバッハの宗教曲三部作とは,マタイ受難曲,ミサ曲ロ短調,ヨハネ受難曲である.

趣味は人それぞれだが,マタイなどはカラヤンの残した録音と聞き比べてもらいたい.いったい何をどう間違えるとあんなに甘ったるいバッハを思いつくのだろう.何しろ大編成のオケ,大編成の合唱でこれでもかと押しつけられるのは,どうにもいただけない.

もちろんリヒターがすべて良い訳ではなく,日本ではマタイの録音は3種が発売されている.内ひとつは日本公演のライブ録音で,これは別の意味と価値があるので,数えないとしても,50年代の演奏と,70年代の演奏ではやや趣が異なる.60年代,70年代と時代が下るにつれて,リヒターの解釈はやや重たくなり,商業的な録音という感じが否めないものも出てくる.

このたび発売されるマタイのDVDは71年の録音で,59年,79年の2つの録音のほぼ中間に位置している(日本でのライブ録音は69年).演奏は58年の物と比べるとやや劣るが,よくも映像が残っていたものだ.貴重な映像なので,バッハの宗教曲がお好きな方にはぜひともおすすめしたいDVDだ.ちなみに今回三部作の他に,ブランデンブルクとオムニバス物も含め5点が発売になっている.(写真はミサ曲ロ短調:マタイ受難曲は2/17発売)

但し,これらはインターナショナル版で,英語,ドイツ語,フランス語,スペイン語,中国語の字幕はあるが,日本語字幕はない.良くこういった物が多いが,いったい何故インターナショナル版に日本語字幕が無いのか,おそらくは旧態依然たる日本の音楽市場の複雑怪奇な流通形態や,販売店の利権の問題なのだろう.世界でもっともクラシックファンが多いといわれる日本で,なんとも不思議なことだ.もしかすると,後になって日本独自版が出るのかもしれないが,ばかばかしい話だ.

CDのコピーコントロールにしても,こういった販売体制の問題にしても,日本は世界の標準からはずれようとしている.ますますCDやDVDを買う人を遠ざけているのではないか?

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Radio Remote

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Radio Remoteの外観

今週の無駄遣いはこれ.果たして意味があるのか?そもそもiPodでラジオを聴くというのは,iPodが提案するPodcastという新しいメディア・コンプレックスに背を向けるものでは無いのだろうか?

これまでも,サードパーティーがiPod用のラジオチューナーを出しているが,Appleが純正を出すとなると,違う意味がある.ところがどう考えても本来のiPodの方向性にはずれているように思えてならない.うがった見方だが,単にリモコンユニットを提供するはずだったのだが,企画が上滑りしてついよけいな機能をつけたという感じがしないでもない.

ただ,こういうインターフェースがあらかじめ用意されていたと思うと,iPodのハード/ソフトともよく考えてあるなと,改めて感じる.

肝心の機能だが,ラジオとしての感度はまあまあだ.やはり日本ではFMは若干ニッチなメディアなので,どこでも電波状態がよい訳ではないし,かといって街中ではビルなどの遮蔽物でノイズが乗りやすい.どうもラジオは良くはいる場所で,腰を落ち着けて聴くというメディアで,移動には極端に弱い.

まあ災害でも有った場合にプッシュ型の情報を受信する装置としては使えるかもしれない.ラジオなんて非常持ち出し袋にいれてあっても,たいてい電池が無くなっている.下手をしたら液漏れしてラジオそのものが使い物にならない場合も多いだろう.そういう意味では,普段リモコンとして使っていて,いざというときラジオになるというのは,「意味」の有ることかもしれない.

ちなみに3Gまで付属していたリモコンはクリップの向きが右開きで,男性がシャツの胸元に止めようとすると非常に不便だったが,今回は左側が開くのでつけやすい.使い勝手で言うと,購入時にラジオの基本設定がUSAになっているのを,日本に変えないといけないが,最初気がつかず88MHzからしか入らないので,理解に苦しんだ.

ちなみに日本以外の多くの国では,ラジオにテキスト情報がのって,ON AIR中の曲名の表示ができるが,日本ではこのサービスが無いので,曲名はおろか,局名ですら表示できない.この辺もラジオがいまいちな理由ではないのか?ラジオ局の設備投資を願いたい物だ.