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香箱組んで昼寝して(8) -自由気ままな猫ライフ?-

Kitty_S.jpg
工場のPhotogenic Kitty(拡大)
野良猫という言葉は嫌いだ.路上生活をする猫たちは幸せななのだろうか?

路上生活をしている猫に餌を与える人がいる.うちのマンションにも,付近に住む猫に餌をあげている人がいて,近隣の住民から苦情を受けている.私は路上生活の猫に餌を与えるのは,自己満足のための卑劣かつ無責任な行為だと思う.

もちろん私は猫が好きだ.通勤途中にいる猫はそれぞれ名前をつけて可愛がっている.私が近づくとお腹を見せて横になる猫もいる.でも餌を与えたことはない.なぜなら彼(女)等は自由な猫だからだ.自由である,ということはこの場合野生であるということに近い.彼等は真の野生ではないが,生きる自由と死する自由を等分に持ち,己の生命を本能の赴くままに全うしている.

その彼等に餌を与えることは,死する自由を享受する者への冒涜である.

最近のティーンエイジャーには,「野生」という事が理解できない人が多く,イルカについて「飼われた方が幸せな場合もある」などと信じている.「野生」であるということ.生きる自由と死ぬ自由を完全に持つことの崇高さが理解できないのだ.イルカは殆ど水族館で世代を重ねることはまれであり,野生のものを捕まえて連れてくるのだ.「死ぬ自由」の判らない人間に,「野生」である事の価値は判らないだろう.

話が逸れた.都会で暮らす猫が「野生」であるとは思わないが,自己満足のために餌を与えることで,人への依頼心を育て,そのくせ自分の都合でしか餌を与えない.病院に連れて行って予防接種を受けさせるわけでもなく.清潔にしてあげるわけでもない.トイレの始末をするわけでもなく,病気になったときの介護をするわけでもない.

ただひととき,神にでも成ったかのような気分に浸るために,「餌を与える」.自分が高所に立ったような行為であり.実に不愉快だ.以前にも書いたが猫を飼うには覚悟がいる.その猫の人生(猫生)すべてに責任を持つことが必要なのだ.辛いこともあるし,苦労もある.そういう負の部分をすべて受け入れず.猫が餌を喜ぶその瞬間を味わいたいがための,卑劣にして自己満足に他ならない行為を私は憎む.

写真の猫は.工場のちび猫で,この冬に生まれたばかりだ.もちろん仲良くなりたいし.餌をあげてみたい.健康状態も気になる.でも彼(彼女?)にはまだ母が居て,夕方には餌を与えにくるのだ.おしりを拭き,餌を与え,体をなめてあげるのは,母の特権なのだ.母に代わる覚悟がなければ,餌はあげられない.

かつて一度だけある猫に餌をあげたことがある.全身に皮膚炎と肉腫があり,眼も爛れていた猫だ.おそらくは死の病を得て,もう永くは生きられないその猫に,一度だけ餌をあげた...一度くらいお腹いっぱいおいしい物を食べた思い出があってもいいと思ったからだ,次の日には見えなくなったが,そのことは今も忘れていない.

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